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明治時代③

1 自由民権運動

(1)自由民権運動の始まりと士族の反乱

明治政府は薩摩藩や長州藩の出身者が実権を握り,五箇条の御誓文の内容に反し専制的な政治をおこなっていた(藩閥政治)。これに対し,四民平等や徴兵令によって特権が奪われた大多数の士族の中では,政府への不満が高まっていた。

  • 自由民権運動の始まり

    征韓論争に敗れ政府を去った,土佐藩(高知県)出身の板垣退助・後藤象二郎や,肥前藩(佐賀県)出身の江藤新平らは,薩長藩閥政治を批判し,国民の意見を政治に反映させられる国会(議会)の開設を求め,1874年に民撰議院設立の建白書を提出。これが新聞に掲載され支持を広めた。これ以降,国会開設や憲法の制定を求め自由民権運動が本格化した。

    板垣退助は建白書の提出後,故郷の土佐で立志社を結成し,運動を進めた。

  • 士族の反乱

    明治政府に不満をもつ士族の一部は,1874年以降,佐賀県・熊本県・福岡県・山口県などで武力による反乱を起こすがすべて失敗。1877年,不平士族は征韓論の論争に敗れ政府を去った西郷隆盛を立てて九州で西南戦争を起こすが,徴兵制による軍隊に敗れた。これ以降,武力による政府への抵抗はなくなり,言論による政府批判が強まった。

(2)自由民権運動の高まりと衰退

  • 自由民権運動の高まり
    • 1878年から各府県で議会が開かれると,民権運動は士族だけでなく農村の地主や商工業者などにも広がり,1880年に民権派が国会期成同盟(もとの愛国社)を結成,国会開設を要求した。

      このような民権派の動きに対し,政府も各種の弾圧法を出して対応した。

    • 1881年,政府で開拓使官有物払い下げ事件が発生。民権派はもちろん,政府内部からも批判を受けた。
  • 国会開設の勅諭

    大久保利通(薩摩)の死後,政府内では伊藤博文(長州)と大隈重信(肥前)が国会開設や憲法制定をめぐり対立。1881年,伊藤ら薩長藩閥は民権派に近い考えをもっていた大隈を政府から追放(明治十四年の政変)するとともに国会開設の勅諭を出し,1890年に国会を開設することを約束した。

  • 政党の結成
    • 自由党

      1881年,板垣退助らがフランスの人権思想を取り入れて結成。士族や農民などから支持を得た。

    • 立憲改進党

      1882年,大隈重信らがイギリス流の議会政治を主張。都市の商工業者や知識人などから支持を得た。

  • 憲法私案

    各地で政治や憲法の勉強会が開かれ,植木枝盛ら自由党系の憲法案や,農村部の五日市憲法など,さまざまな民間の憲法私案がつくられた。

  • 民権運動の衰退

    1880年代に入ると日本は不況となり,生活の苦しい貧農らは福島事件(1882年)や秩父事件(1884年)など,言論抵抗や暴動を起こしたがすべて弾圧された。同じころ,自由党は党内対立により解散,立憲改進党も大隈が暴動に失望して脱党するなど,民権運動は衰えた。

2 立憲国家の成立

(1)立憲国家の成立

  • 政府の憲法草案

    民間で憲法私案がつくられたころ,政府でも国会開設に備え,伊藤博文をヨーロッパに派遣。君主の権限が強いドイツ〔プロイセン・プロシア〕憲法を手本に憲法草案を作成。

  • 政治制度の整備
    • 国会開設に備えて華族令を制定(1884年)。将来の貴族院の母体とした。
    • 1885年には内閣制度をつくり,初代内閣総理大臣(首相)に伊藤博文が就任した。
    • 天皇と相談する機関として枢密院がつくられ,憲法草案の審議がおこなわれた。初代枢密院議長には,総理大臣を辞めた伊藤博文が就任した。
  • 大日本帝国憲法

    1889年2月11日,天皇が国民に与える形で大日本帝国憲法が発布された(黒田清隆内閣)。

    • 天皇には国の元首として,陸海軍の統帥権などのさまざまな権限が与えられた。
    • 衆議院・貴族院からなる帝国議会が導入された。
    • 天皇の「臣民」である国民は,法律の範囲内で自由が与えられた。
    • 日本は当時のアジアで唯一の憲法・議会をもつ立憲国家となった。
  • 憲法以外の法律の整備
    • 市制・町村制(1888年),府県制・郡制(1890年)など地方制度が整備。
    • 刑法・民法・商法なども整備され,法律で国を治める体制が整った。

      民法は一家の主人である戸主の権限が強く,女性は男性に比べ地位が低かった。

    • 1890年に教育勅語が出され,天皇に忠誠を誓い国を愛する「忠君愛国」を基本とする教育の基本方針が示された。

(2)帝国議会の開設

  • 帝国議会のしくみ

    衆議院と貴族院からなる二院制で,両院の権限はほぼ対等だった。

    • 衆議院

      国民の選挙で選ばれた議員で構成された(=民撰議院)が,選挙権が与えられたのは,直接国税15円以上を納める25歳以上の男子のみとされ,全国民のわずか1.1%だった。

    • 貴族院

      皇族や華族の代表,高額納税者などから選挙なしで選ばれた。

  • 初期議会

    1890年に第一回の衆議院議員総選挙が実施され,立憲自由党(自由党が再建)と立憲改進党の民党(民権派政党)が過半数を獲得した。民党は地租軽減などを主張し,軍備拡張や増税を主張する藩閥政府と激しく対立した。政府に味方する議員を増やすため,1892年に再度総選挙をおこなったが,民党有利の状況は変わらず,1894年の日清戦争開戦までは,民党と政府の対立は続いた。

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